カドナビ 新刊ブックレビュー

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あさのあつこ『かんかん橋の向こう側』

帰る「内」があることの幸せを、優しく描き出す一冊

【評】吉田伸子

書籍データ
かんかん橋の向こう側
あさのあつこ
KADOKAWA 本体1800円+税

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 中国地方にある、寂れた温泉町・津雲町にかかる小さな石の橋。「かんかん橋」と呼ばれ、親しまれてきたその橋は、地元の人々の悲喜こもごもを、ずっとずっと見守り続けてきた――。

 その津雲にある食堂「ののや」の一人娘・真子。物語は、この真子と「ののや」を真ん中にして語られていく。本書の前作に当たる『かんかん橋を渡ったら』では、真子は小4から中学生になる。その間に起こった真子自身のこと――小学校入学の翌日に母親が家を出て以来、真子を男手一つで育ててきた父親が、「ののや」の常連だった女性・奈央と再婚する、等々――が、「ののや」の常連さんたちのドラマ、津雲に暮らす人々のドラマを交えて、描かれていた。

 本書の真子は高校生だ。子どもだった真子が、今では思春期の只中にいる。奈央と二人暮らしとなった(その件は前作を読んでください)真子は、大人になった分だけ奈央の気持ちが前よりも分かるものの、だからこそ、素直になれない。自分に向けられる奈央の想いがありがたくて、嬉しく、でも少しだけうっとうしい。高校3年、大人の入り口にいる真子は、様々な想いに揺れる。

 前作もそうなのだが、本書にあるのは、津雲という町、とりわけ「かんかん橋」への愛おしむようなあさのさんの眼差しである。それは、ごくごく普通の人たちである登場人物たちの描きかたにも通じている。真子への、奈央への、そして、「ののや」の常連たちへ向けるあさのさんの視線の、なんと優しく温かなことか。

 加えて本書では、「かんかん橋」を渡ってやって来た一人の青年によって、穏やかな津雲の町の日々が、ひと時、不穏な陰りを帯びる顛末も描かれる。その青年が津雲町にやって来たのは、二休と名乗る謎の男がブログに綴っていた「KANKAN騒動記」を読んでのことだった。騒動記の中の「ののや」を彷彿とさせる「のんのんや」と、そこに集う常連たちのエピソードを読んでファンになり、実際に訪れてみたくなった、という。東山と名乗ったその青年は、何やら訳ありの雰囲気を纏っていたのだが……。

 本書を読みながら、ずっと頭にあったのは、「内と外」ということだった。「ののや」の内と外、真子の内と外、奈央の、常連さんたちの内と外。人の内と外というのは、家族に見せる顔、家の「内」で見せる顔と、学校や仕事場といった「外」で見せる顔のこと。そして、津雲の内と外。それは、故郷の町と外の世界、ということだ。

 津雲を出たきりの人、ずっと津雲にいる人、一度は津雲を出て帰って来た人、そこからまた出て行く人。人はみな自分の選んだ道を進む。どれが正しくて、どれが間違いということはない。ただ、いつでも帰って来られる「内」というものがあることが、どれだけ幸せなことなのか。無条件で受け入れてくれる場=i本書では、それが「ののや」である)があることが、どれだけ救われることなのか。

 人は一人でも生きていける。生きていけるけれど、もし、他愛ないざわめきが恋しくなったり、ほんの少し、何かに、誰かに寄りかかりたくなった時、そこに身を置ける「内」があることは、どんなにありがたいことなのか。どんなに心強くなることなのか。そんなことを、本書は教えてくれているように思うのだ。

 そして、そんな「内」がある人はしなやかに強い。真子も、奈央も、「ののや」の常連さんたちも。時に悩んだり、落ち込んだり、失敗して立ち止まったりしながらも、彼らは再び顔を上げて、彼らの日々を進んでいく。本書のラストは、大学生になった真子が、かんかん橋の向こう側≠ノ行く場面だ。さぁ、行ってらっしゃい、真子。広い外を見ておいで。そんな気持ちで本書を読み終えた。

よしだ・のぶこ 書評家

「本の旅人」2016年3月号より転載
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