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末國善己『はだれ雪』

忠臣蔵を独自の視点で切り取った 勇気と希望の物語

【評】末國善己

書籍データ
はだれ雪
葉室 麟
KADOKAWA本体1800円+税

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 葉室麟は、二〇〇九年に、牢人の雨宮蔵人と妻の咲弥を主人公に、朝廷と幕府の対立として忠臣蔵を捉えた『花や散るらん』を刊行した。それから六年、著者が改めて忠臣蔵を描いた『はだれ雪』は、より深い人間ドラマと、重厚で普遍的なテーマを描いている。

 元禄十四年。江戸城内で、赤穂藩主の浅野内匠頭が、高家の吉良上野介へ刃傷に及んだ。側用人の柳沢吉保は、原因を究明しないまま内匠頭を切腹させたが、これに反対したのが目付の永井勘解由だった。秘かに切腹前の内匠頭に会った勘解由は、刃傷の理由を聞く。それを知った将軍の綱吉は激怒し、勘解由は扇野藩に流された。扇野藩は、夫が不名誉な死を遂げた紗英に、勘解由の身の回りの世話を命じる。

 紗英は、逆境の中にあっても信念を曲げず、武士の「誠」を尽くすため仇討ちを進める元赤穂藩士を助ける勘解由に魅かれていく。だが、勘解由が幕府の裁定を否定する仇討ちに関係したとなると、扇野藩が処分される危険がある。藩内では、勘解由を擁護する筆頭家老の馬場民部と、批判派の才津作左衛門の対立が激化。才津派は、非常時には刺客になる監視役として、由比道之助を勘解由のもとへ送り込む。

 物語は、勘解由と紗英の恋の行方、吉良を狙う大石内蔵助たちの動向、そして扇野藩の権力抗争が複雑に絡み合っていくので、恋愛小説が好きでも、政治ドラマが好きでも楽しめる。

 龍笛が得意な勘解由と琴の名手の紗英は、音楽や和歌を通して互いの心を探っていく。永遠に残る芸術と、わずかな期間の栄華を誇るために行われる謀略戦が対比されているだけに、政争の愚かさが実感できるのではないか。

 将軍の意に反して元赤穂藩士を手助けする勘解由、藩の命令に背いて勘解由と大石たちを繋ぐ紗英、天下の法を無視して吉良を討とうとする大石たちは、いずれも組織のルールを無視している。だが勘解由たちは、不正に加担するくらいなら、己の倫理観に殉じる覚悟で問題にぶつかっていく。

 組織に属していると、不正だと分かっていても命令に逆らえないことがある。この時、長いものに巻かれるか、それとも拒絶するか――葛藤しながらも信義を貫く勘解由たちの存在は、これを問い掛けており考えさせられる。

 忠臣蔵は、内匠頭が善、吉良が悪とされることが多い。勘解由も内匠頭の仇を討とうとする大石たちにシンパシーを抱いているが、本書は単なる勧善懲悪の物語にはなっていない。勘解由は、「誠」を持った者なら、吉良方にも手を差し伸べているのだ。ここから見えてくるのは、勘解由が戦っているのが、強大な権力を持つ者なら喧嘩両成敗という原則を無視しても許される体制や、法を運用するのに最も大切な情を欠いた政治家、人の上に立つがゆえに高い倫理観を持っていなければならないのに、手柄や出世に汲々として本来の役割を忘れた武士ということである。

 現代の日本は、弱肉強食の生存競争で格差が広がり、国民が安心して暮らせる国をつくるための改革を進めない政治家には、多くの人が情も倫理観も感じられないでいる。だからこそ、社会の矛盾を糾すために立ち上がった勘解由の想いが、深い感動を与えてくれるのである。

 終盤には、勘解由が、上の命令というよりも私怨で命を狙い始めた道之助と死闘を繰り広げる。勘解由が嫌う要素を凝縮した道之助と雌雄を決する迫力の剣戟シーンは、作品のテーマも際立たせていくので強く印象に残る。

 タイトルの「はだれ雪」は、まだらに残った雪のことである。潔く散って武士の「誠」を完結させた大石たちが美しく消えた雪なら、待ち構える苦難を前にしても、泥にまみれて生きる道を選んだ勘解由と紗英は、決して美しいとはいえない「はだれ雪」といえる。

 勘解由たちの生きざまは、次第に明らかになる内匠頭の刃傷の理由と響き合い、力強いメッセージを浮かび上がらせていく。それは厳しい時代を生き抜くためのヒントになっているので、読むと勇気と希望がもらえるはずだ。

すえくに・よしみ 文芸評論家

「本の旅人」2016年1月号より転載
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